由于處在閉塞的海島上,歷史上很長一段時間里,日本是沒有可以書寫的文字的。直到公元5世紀,漢字傳入,日語就直接用漢字來書寫。到了9世紀,日本人才在漢字的基礎上創(chuàng)造了現(xiàn)在使用的假名。假名分為“平假名”和“片假名”,它們只借用漢字的音和形,用來表音,比如“あ(音同‘阿’)”,就是脫胎于草書的“安”!‰m然有了自己創(chuàng)造的假名,但漢字并未在日語中消失,時至今日,我們還可以在日語中看到大量漢字,誰讓日本人早已用慣了漢字呢!另一方面,這和日語的詞匯構成也有很大的關系。
日語的詞匯分四種:漢語、和語、外來語和混種語。漢語就是吸收并改造了的中文詞匯。和語是漢字傳入日本前的古老詞匯。除了漢語,日語還吸收了大量的歐美詞匯,比如“スタート”,直接根據(jù)發(fā)音將start用假名拼出來,這就是外來語。而混種語則是和語、漢語、外來語中兩種以上混合組成的詞匯,還包括日本人生造的看似外來語的詞匯,比如“コスプレ”,就是將costume和play組合在一起形成cosplay,再根據(jù)發(fā)音用假名拼出來的一個詞。
既然這樣,為什么會哭著出來?那是因為一旦深入學習日語,就像游戲進入Hard模式,難度噌噌見漲!首先,可萬萬不能說日語漢字等于中文漢字。日語里許多漢字的字形與中文相同,意義卻與中文毫不相干。比如,“汽車”在日語里是“火車”的意思;還有“手紙”,并不是我們以為的廁紙,而是“信件”的意思。有些日語漢字,分開看,每個字都認識,可組合成的詞語卻讓人摸不著頭腦,比如“交番”“踏切”,你能想到它們是“派出所”“道口”的意思嗎?其次,日語的語法比較特別,與中文還有我們一直學的英語差別很大。舉個*簡單的例子,中英文里都是“主語+謂語+賓語”的句子結構,而日語則是“主語+賓語+謂語”的結構,“我吃飯”在日語中是“我飯吃”。
還有敬語,這也是日語學習的一大難點。日本是一個非常注重禮儀的國家,上下等級分明,長幼有序,親疏有別,因此敬語體系異常發(fā)達:在不同場合、對不同對象要用不同的敬語,給予者和接受者所使用的敬語不同,第一、第二、第三人稱使用的敬語也不同……這可難倒了不少同學。
「若い木」に対して「古い木」などは使えるし、冒頭の「若い番號」なども結構使っている。でもその反対語 は・・・。また「若い実」などはまだ熟していない実のことであり、「君の考え方はまだ若いよ」などはかなりマイナスな意味としても使われる。\這個「若い」的形容詞確實很難!溉簸つ尽沟膶恰腹扭つ尽梗恼麻_頭的「若い番號」(數(shù)字小的號碼)也常用。但是它的反義詞卻沒有。另外「若い実」指的是尚未成熟的果實,它還能作為貶義詞來使用,例如「君の考え方はまだ若いよ」(你的想法太幼稚了)。
「先生は體もまだまだ若いですが、教え方も若いですね」などと生徒から言われたら、素直に喜んでいいものか・・・とても悩んでしまう!赶壬象wもまだまだ若いですが、教え方も若いですね」“老師還很年輕,但是教育方法很不成熟”,如果被學生這樣說的話,我怎么能夠坦率地高興呢,我會非常地苦惱。
日本語教育も中級に入るころから語彙などもどんどん増えてくる。そして學習者も言葉にいろいろ関心が出てきて、こんなことも気になってくる。例えば「丸」には「丸い」、「四角」には「四角い」とちゃんと形容詞があるのになぜ「三角」はないんですか・・である。こんなこと考えたこともなかったが確かに「三角い」とは言わない!笩oいから無いの・・・」といいたいのだが、でも確かにちょっと不思議である。日語教育進入中級階段,詞匯會海量增加。這時學習者會更加關注詞語,會在意各類情況。比如,“丸”和“四角”都分別有形容詞“丸い”和“四角い”,那為什么“三角”就沒有呢……我倒是沒考慮過此類問題,但是確實不會說 “三角い”呢。很想就回一句“沒有就是沒有……”,不過確實有些不可思議。
先日もチューターをしている教師養(yǎng)成講座の卒業(yè)生から「重いと重たいはどう違いますか」と生徒に質問されてとても困っちゃいましたとのメールが屆いた。これもよくある質問で日本語教師にとっては悩めるもののひとつである。こんなことどうでもいいと思うのだが・・・でも學習者にすれば*初「重い」を學んだあと同じ形容詞の「重たい」が 出てくればその違いは何だか知りたくなるのも當然である。我々日本人はこんなことあまり考えたこともないのだが、でも何となく使い分けている。例えばこの 荷物とあの荷物とどちらが重いか単純に比較するようなときはあまり「重たい」は使わず、「どっちが重いですか」のほうが自然な感じが・・・、しかしその荷物を自分が持つとなると「どっちが重たいですか」になるのでは・・・、また「この荷物は重たいから持ちたくない」なども 「重たい」を使うような気がする。やはり日本人は何となく違いを意識して使い分けて いるのであろう。
前些天,一個現(xiàn)任助教的教師培訓講座畢業(yè)生發(fā)郵件來說被學生問到:“重い和重たい有什么區(qū)別?”,自己很是糾結。這是常有的提問,是讓日語老師頭痛的問題之一。我倒是覺得這類問題無足輕重啦……不過,從學生的角度來說,*開始要學“重い”,之后遇到同是形容詞的“重たい”,肯定是會想知道這兩個詞的區(qū)別。咱們日本人很少會考慮這種事情,不過潛意識中還是會區(qū)別使用。比如只是單純比較兩件行李哪件更重時不怎么用“重たい”,說“どっちが重いですか(哪個重?)”感覺更自然……可是如果是自己拿行李可能就要用“どっちが重たいですか(哪個沉?)”吧……此外諸如“この荷物は重たいから持ちたくない”等情況也會用“重たい”。日本人果然還是無意識中在區(qū)分使用啊。
ではその「違い」は・・・。この「重たい」はよく話し言葉として使われており、確かに 自分の感情を込めて表現(xiàn)しようとする場合に多く用いる。荷物の件もずしりと重みを 感じている気持ちを強調する場合は「重たい」のほうが自然である。するとやはり 「重たい」のほうが「重い」より重いのかも・・・。那么其“差異”是……“重たい”常用在口語當中,多用于表達確實融入了自己感情的情況。比如在強調行李很重時“重たい”更自然。這樣看來“重たい”比“重い”更重吧……
そしてこの「重たい」などの「~たい」が付く形容詞を調べてみると「眠たい、冷たい、 煙たい、じれったい、やぼったい、」等いくつかあるが全體的に何となくあまりよくないイメージを表す言葉が多い。確かに「この料理は胃に重たいね」のほうがぴったりする。やはりこの「重たい」は自分の嫌な気持ちを表す表現(xiàn)なのであろう。でもなぜ 「口が重い」や「腰が重い」のような慣用句には「重い」が使われているのか・・・。
此外,來看看諸如“重たい”等帶“~たい”的形容詞,“眠たい、冷たい、 煙たい、じれったい、やぼったい”等有很多,整體來看總感覺多是表示感覺不怎么好的詞。確實,說“この料理は胃に重たいね”更符合習慣吧。果然“重たい”是表示自己厭惡感情的詞吧。那么,比如“口が重い”和“腰が重い”等慣用說法時為什么又用“重い”呢…
それはさておき、「重い・重たい」と同じように形容詞がペアになっている「眠い・眠たい」や「煙い・煙たい」などもやはり同じような感覚で日本人は使っているのでは・・・。間違いなく「煙たい」は「煙い」より嫌悪感がある!该撙ぁ工取该撙郡ぁ工悉饯螭什瞍悉ⅳ蓼旮肖袱胜いⅰ笗h中に眠たくなってしまった」は眠い行為をマイナスなことと言いたいのであろう。
這個先不提,來看看跟“重い・ 重たい”同類的形容詞組“眠い・眠たい”和“煙い・煙たい”等,日本人果然還是帶著類似的感覺在使用吧……毫無疑問的“煙たい”比“煙い”更有種厭惡感!懊撙ぁ焙汀懊撙郡ぁ钡牟顒e雖然沒有那么明顯,但是比如“會議中に眠たくなってしまった”這句中睡覺的行為是作為消極因素在說。
ここでもっと恐い質問が待っている!钢丐ぁ工恕钢丐郡ぁ工ⅳ毪韦、「軽い」の「軽たい」 はダメですかである。困ってしまった。でも確かになぜ・・・。更にもしこんな質問されたらどうしようと悩んでしまった。それは「冷たい」があるのにどうして「冷い」はないんですかである。でもよく考えるとこれも確かに不思議である。 たかが「た」があるかないかなのに・・・。これから生徒と一緒に飲みに行くのが恐ろしい!篙Xたい」や「冷い」が気になって気楽に「軽く冷たいビールでも飲みに行こうか」など 言えなくなってしまいそう。日本語教師はとても因果な商売である。